とあるマンションの一室に普通の男が一人暮らしをしていた。
男は、いつも深夜に仕事、早朝に帰宅、昼間は睡眠をとる、という生活を繰り返していた。
今日も、男は早朝に帰宅し、すぐに眠りについた。男にとってこの瞬間ほど幸せなときはないのだ。
「山村和久、山村和久をよろしくお願いいたします。この度、衆議院議員に立候補いたしました山村和久を・・・」
男はカーテン越しに聞こえてきたその声で目を覚ました。
「そうか・・・もうこんな時期か・・・勘弁してほしいよな・・・こっちは夜まったく寝てないのに・・・。」
やがて、声が聞こえなくなり、男は再び眠りに着こうとした。
しかし、
「伊藤康彦、伊藤康彦をよろしくお願いいたします。この度・・・」
再び窓の外から大音響で聞こえてきた。
男は耳を押さえて呻いた。しかし、外からの声は一向に小さくならない。
結局、男はそれから一睡もできずに、出勤の時間を迎えてしまった。
男は、仕事の帰りに耳栓を買った。これでどのくらい効果があるかは分からないが。
早速耳栓をして、眠ってみた。
しかし、またも
「山村和久、山村和久をよろしくお願いいたします・・・」
の声で目を覚ましてしまった。
「なんだよ、この耳栓全然意味ないじゃないか!」
男はそれを床にたたきつけた。
それから男は毎日その選挙運動の声に悩まされた。
どんなに疲れて熟睡していても、その声が聞こえると目が覚めてしまうのだ。
友人に催眠術をかけてもらったこともあった。だが、そのときも目を覚ましてしまった。
どんなことをしても、あの声は聞こえてきてしまうのだ。夜の仕事をしていないと食っていけない男にとって、それは地獄だった。
ある日、男はついに怒りとストレスが限界に達し、選挙管理委員会へ乗り込んでいった。
「お前ら!いい加減にしろ!毎日毎日選挙運動なんかしやがって!このままでは俺はノイローゼになってしまう!今すぐ選挙運動を中止しろ!」
男は、警備員に取り押さえられ、精神病院へ運ばれていった。
医者と警備員が話している。
「なんなんでしょうか、この男は。今の時期選挙運動なんてどこでもやっていないのに。」
「催眠治療した結果、この方は毎日、夜は仕事、昼は睡眠、と自由な時間がほとんどない生活を送っていたようです。それで心の奥底に昼は起きていたい、自由にしていたいという願望が生まれ、その結果、選挙運動の演説という幻聴を引き起こしてしまった、そういうことですよ。」